昭和五十六年六月十六日 朝の御理解
御理解第十節「神が社へ入ってはこの世が闇になる。」
御理解十節には聞かれた通りの事ですが、そういう事を思うからでしょうか、教団でも神様をお社の中にお祀りするというのは、金光教的ではないというふうな見解で、これからのそりゃ殆どが天地書附を剥き出しにそのまま拝むといったような、お社の中に閉じ込めるというのは、まあ閉じ込めなさったからというて出きんなさらんという神様でもないでしょうけれども、もうそういう見解で金光教の神様を今そんなふうに申しております。これでもやはり、教祖はこんところをそう言っておられる。
社にちゃんと納まっている神様じゃ無いというけれども、ただただ願いの焦点というかね、云うなら、天地を拝めばそれでいいのだけれども、願いの焦点としてそこにいわゆる、お社があってお祀りがしてあると、やはりこちらの心もそこにこう焦点を置く事が出来る。生き生きと青々とお榊が両側に瑞々しゅう立っておる。お明かりが赤々と上がっておる。神前にはそれこそ見事にお供え物がしてある。そういう前に座って神様を拝む時にどこを向いて、柱一本目当てでもよい、いや柱一本もない、それこそ天地を目当てでもいいのですけれども、私共はやはり何というでしょうかね、まあ感覚を持ってますからね。漠然としたよりもやはりそこを、お幕があったりお箕があったり、そしてそこに、神様がお鎮まりましましているという実感を持った方がまあ有り難いというので、いろいろとまあ演出ですけれども、演出されている訳であります。私の方の住まっておる部屋に見事な神様がお祀りしてあってやっぱお社さんなふうに(お広前の神前と同じの意)なっておりますけれども、そういう見地から金具だけを付ける事をしませんでした。金具でこう閉めこんでしまうと、だからね、中からいつでもポンと神様が出て来られなさるように、云うなら考えた訳ですけれどもね。そんな理屈はどうでもいいですけれども、この神様が社へ入れば闇になると、ところがまたの御教えには「信心なければ世界は闇なり」とも教えられてあります。ね、それこそもう、燦々というか皓々として神様の光が満ちあふれておるのですけれども、人間氏子の心次第ではそれが闇になる。いわゆる信心がなからなければ世は闇だと、ね、歌の文句じゃないけれども、この世は闇だというが、この世は闇にゃ自分自身、云うならば、人間の心が闇なのであります。ね、いよいよ信心させて頂く者によってね、世が闇ではなくて、いわば光明世界にしていくという事はどういう事であろうか。
昨日は富久信会でございました。昨日は思いがけない方達、昨日は宮崎、延岡、伊万里、勿論久留米、福岡は勿論ですけれども、そういう遠隔地からも、兎に角お商売をなさる方達が、此の頃度々富久信会がこう生き生きとまあ発展しております。これは、泉尾の三宅先生がいつもおっしゃられておりますが、どんなに世の中が不景気であっても、お道の信心をさせてもらえば、不景気知らずのおかげが受けられると言うておられます。昨日発表された殆どの方のお話がそれでした。もう本当に同業者の方達は、売れない売れない、困る困ると言うておるにもかかわらず、それこそ不景気知らずの不思議な御都合、お繰り合わせを頂いておかげを受けているという話が殆どでした。
中に私は本当に一言のお話しでしたけれども、感じました事ですけれども、加藤さんのお話しでした。丁度電気屋さんも休みがあるわけ、だから店の者もその日はお休みですからいません。店は勿論閉めてある。で、裏の庭の手入れなんかしておられたけれども、ちょこっと店の方へ出られたら、さかんに電話がかかって来ておる。それを受けられたら、何回も何回もかけたけれども、かけてもらってよかったというて、相手の方が言われているのを聞かれて、それを受けた加藤さんがそれより以上に喜んでおられる様子を、話の中から感じ取りました。私は、いや今日は休みでうけれども店員も皆休んでおりますがと言うのではなくてね、例えば相手がお客さんですから、例えば機嫌、愛想よう受けたに致しましても、今日は折角休んどるとにというような思いをするところですけれどもね、それを思うておられない様子が話の中にこうはっきり感じられるお話しでした。
云うならば、お客さんが喜ばれるという事は、もう自分喜びとして、ははあ加藤電気の発展繁昌の秘密はここだと私は思うたですね。人が喜ぶという事、お客さんが喜ばれる、そこにいつも焦点が置いておられるなあ。
私はね、世の光りともなる、云うなら実を言ったら神様の光りと言うのはいわゆる、もうあまりにも大きいんです。ですから、云うなら人間の心次第ではそれが闇にも見えるといった、いわゆる、この世は闇だになってしまうんですかれども、信心なければ世界は闇と仰せられる信心とは、神様に喜んで頂く信心。それはそのまま、商売人であるならばお客さんが喜んで下さりさえすればという、その喜びが自分の喜びであるというように感じれれる信心内容だと思うです。
ね、闇を光りに変えていく。それは、人が喜ぶ事に奉仕する。ね、それをこよない自分の生き甲斐とも喜びともしていくような信心をするなら、成る程不景気知らずのおかげが頂けるだけじゃなくてね、光明世界を広げていく。これも加藤さんがその後に話しておられました、本当にまあ云うならば、金光様のお話しをするなら、来ちゃくれるなと云われておった人達が求めて信心を頂けるようになられる様子を話しておられましたが、皆さんの喜び、こりゃあ商売人ならお客さんに喜んでもらえばと言う。
日田に想夫恋という焼きそば屋ですかね。これは全国にチェーン店があるそうです。日田の大きな材木屋しとったけれども、失敗してしまってどうにも出来なくて、その時分には参って来ておった。だが今度、想夫恋をして兎に角、日に百杯売れば、親先生、兎に角立ちゆきますますから、どうでも百杯大体売れますようにというようなお願いで、始められたら、だんだん、だんだんもう止める時にゃ五百も売れるというような繁昌した。その頃になったら、ピシャッとお参りを止めちしもうた。そしてしばらくどげんしよるじゃろうかと、思いよったら又参って来て、そのお客さんが、がた落ちになった。だから、忙しかれば繁昌すれば自分が止めるといったようなこつじゃなくて、いわゆる本気で云うならば、信心で助かる、信心で繁昌するおかげを頂きなさい。昨日も夫婦でお礼参拝して来ました。おかげであれからずうっと尻上がりにおかげを頂いて昨日は三百五十売れました。兎に角、お客さんに喜んで喜んで頂く、あのう話を聞いたんですけれど、全国それはチェーン店ですから、云うなら麺も何か味をつけるのもみな同じだそうです。だから自分方だけ例えば美味しゅうするというような事の出来ないように、ただ云うなら技術もやっぱりいるんだといったような意味の事を言うてましたが、そんならどこの想天恋に行っても同じ味という事だから、あんたん所だけは心を入れなさい。どうぞ、お客さんが喜んで頂きますようにと言う、そのあんたの信心をいれて作りなさい。と申しましたのがこの前参って来た時でしたがね。おかげを頂いて、だんだん昨日は云うなら、三百五十から売れるようなおかげを頂いたという。たとえ品物は同じであっても、値段は同じだあっても、味は同じであってもそん中に入れる心が違う。ならその心は兎に角、お客さんが喜んで下さるように、お客さんが美味しいと喜んで下さるようにその祈り、喜んで下さりさえすればというその祈りなんです。それが私は世の光りともなるのであると同時にです、このまあ御理解十節は云うなら、金光教の神観でも御座いましょう。ただ説明すると金光教の神様ちゃお社の中に納まってござる神様じゃない。ね、天地を一目に見てござるし、天地を云うならば明かりをもって照らし続けてござる神様だと云う、云うならば説明なんです。
けども私は今日は、ここに社に入れば世の中が闇になると仰せられるが、そういう光り輝やいている中にでも、人間が自分の心からこの世は闇だにしてしもうておるという事はなかろうか。信心は頂いておっても、云うなら自分の心一つでおかげの受けられないね、自分が例えば思うておるその事を一ぺん検討してみてごらんなさい。お客さんの事をどんなふうに思うておるか。従業員なら従業員の本当な立ち行をどのくらい主人として思うておるか。利用さえすりゃ使いもうけと言ったような、そげなこつもなかろうけれども、それに対する云うなら、光りにもなるような思い方をしとらんです。ね、本当に世の光りにもなるような思い方の出来れる信心をいよいよ頂き、いよいよ光明世界を広げていきたいと思います。 どうぞ。